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鈴木浩平 (空手家) : ウィキペディア日本語版
鈴木浩平 (空手家)[すずき こうへい]

鈴木 浩平(すずき こうへい、1946年 - )は、日本空手家で、極真空手道連盟 極真館吉川支部長である。身長155センチメートル、体重58キログラムという体格ながら、極真会館主催の無差別級オープントーナメント全日本空手道選手権大会で活躍した。東京都出身。
== 来歴 ==
2歳の時に腰椎カリエスを患い、腰の骨が変形して身体障害者になる。その後、中学の時に父親を亡くし、高校はアルバイトで学費を稼ぎながら通学し、2年生時に柔道、3年生時に剣道、自宅の近所で和道流空手道を修行し、6級を取得した。この時期に大山倍達と国際空手道連盟極真会館本部道場の存在を知り、高校卒業後に極真カラテを修行しようと決意する。鈴木の下肢は常人と変わりないものの、背骨が極端に湾曲しており、就職活動も外見で差別され苦労していた。
しかし、就職も無事決まり1965年(昭和40年)3月に高校を卒業して、翌月に極真会館へ入門した。当時は大山以下、師範代黒崎健時黒帯の先輩に大山茂郷田勇三中村忠・小沢一郎・加藤重夫大沢昇芦原英幸茶帯では盧山初雄、緑帯に添野義二、同期に山崎照朝及川宏佐藤勝昭の兄、佐藤龍夫らがいた。仕事に勤しむ合間に空手道修行を励んだが、うれしかったことは極真会館が体の悪い鈴木を差別しないで、皆と同じ稽古をさせてくれたことだった。
緑帯になった1966年(昭和41年)9月、『007は二度死ぬ』の撮影で来日していたショーン・コネリーが本部道場に来訪し、演武会が行われた。大山茂・郷田・加藤・大沢・芦原らと共に参加して、前蹴りで板3枚を割り、組手でも奮闘した。コネリーは「鈴木の演武が一番印象に残った」と語り、後年大山倍達がヨーロッパへ赴きコネリーと再会したときも「鈴木は元気にしているか?」と消息を尋ねられたという。
1967年(昭和42年)4月15日、盧山初雄・添野義二・山崎照朝・及川宏らと共に初段(黒帯)を允許された。
1971年(昭和46年)の第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場。4回戦で3対2の判定負けを喫するがベスト8に進出し、同年末には極真特別敢闘賞を授与した。
1972年(昭和47年)の第4回全日本選手権にも続けて出場し、再び3回戦まで勝ち抜き、4回戦でハワード・コリンズと対戦。コリンズとは身長で23センチメートル、体重で32キログラムの差があった。しかし、試合の前半から中盤にかけて、コリンズをローキックハイキックのコンビネーションで攻めまくる。終盤に入り、コリンズが右回し蹴り後ろ蹴りでそれぞれ技ありを奪い、鈴木は合わせ一本を決められて敗退したが、前年に続いてベスト8に入った。
1973年(昭和48年)3月18日に参段を允許され、1974年(昭和49年)にはマス大山カラテスクール師範代である山崎照朝の後任として指導員に就き、2年間スクール生を指導した〔〔。
1977年(昭和52年)、5年ぶりに第9回全日本選手権へ参戦。4回戦で惜敗したがベスト16に入った。なお、鈴木が参加した選手権大会では「ゼッケン××、鈴木浩平選手は身体障害者でありますが、不屈の闘志をもって見事にその欠陥を克服し~」と場内アナウンスで紹介され、満場の拍手は常に鈴木へ集中していた〔。同年、鈴木は郷田勇三が管轄する極真会館城東支部亀戸道場で師範代を担い、1982年(昭和57年)まで続けた。
1999年平成11年)から盧山初雄の極真会館 松井派埼玉支部吉川道場の師範代に就任し、2003年(平成15年)には盧山が極真空手道連盟極真館設立と共に、同館の吉川支部長に就き、現在、同支部で後進に指導をしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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